今は、講談社学術文庫の『世親』を読み返したりしています。二回目ですが、一回目では見落としていたところなどがあり、やはり繰り返して読むことには価値があります。時間との闘いですな。
講談社学術文庫の『龍樹』と『世親』は、特に素晴らしい。西洋哲学も良いけど、東洋の思想もやっぱりとても良いなり。
今は、講談社学術文庫の『世親』を読み返したりしています。二回目ですが、一回目では見落としていたところなどがあり、やはり繰り返して読むことには価値があります。時間との闘いですな。
講談社学術文庫の『龍樹』と『世親』は、特に素晴らしい。西洋哲学も良いけど、東洋の思想もやっぱりとても良いなり。
本書の題に〈最後の思索〉とあるように、西部邁さんが自裁した直前に語られた日本人論です。西部さんといえば、イギリスのエドマンド・バークなどを参照し、保守主義を説いてきたことが知られています。その反面、具体的な日本の思想を全般的に論じたことは少なく(『日本の保守思想』や『国民の道徳』などがありましたが)、人生の最後に日本思想史を通して語っていることには感慨を覚えます。
細かいところに疑義を呈したい気持ちはありますが、野暮なのでやめておきましょう。ここでは、イギリス流の保守思想を紹介してきた人物が、人生の終わりに日本思想を巡ったことに敬意を示すべきでしょう。
ということで、高評価で終わりたいのですが、ここで問題となるのは応答者の浜崎洋介さんです。『表現者criterion』の編集者の一人になっていますが、創刊号の座談会で、同じく編集者の一人である川端祐一郎さんが、日本人は昔から伝統的に議論の積み重ねができないというようなことを述べたのに対し、浜崎さんは何も反論していないのですよね。本著にたずさわった一人として見るなら、いささか情けないと感じられてしまいます。ちなみに、同じく編集者の柴山桂太さんは反論していました。
また、本書の「まえがき」で浜崎さんが「追記」している箇所は重要です。引用してみましょう。
この「まえがき」を書いた直後に(4月5日)、MXテレビの窪田哲学プロデューサーと、表現者塾・塾頭の青山忠司氏が、「西部邁自殺幇助」の疑いで逮捕されたとのニュースが入ってきた。二人は容疑を認めているとのことである。私自身も思うところが少なくなく、その「けじめ」については、いつか言葉にしなければならないと考えているが、この日本人論の「まえがき」に関しては変更する必要を認めなかった。
早めに「けじめ」をつけてほしいものだと思います。本書で西部さんとの応答を務めたのですから、単なるコウモリ野郎に堕ちきってしまう前に、まともな発言をしてほしいものです。
本書は、福澤諭吉の経済思想に焦点を当てたものです。特に、明治一〇年代の後半に、松方正義が紙幣整理を進めるために採用したデフレ政策による深刻な不況と、それに対して福沢が展開した経済思想の紹介は実に見事です。
明治政府は困窮する民衆へ勤勉や節約を説くだけで、景気回復のための満足な対策をしていませんでした。それに対し福沢は、節倹が不況対策として有害であることと、奢侈の積極的肯定の論理を展開するのです。奢侈増大→有効需要増大→雇用量増大というプロセスの提示です。著者は、『時事新報』に連載した社説から、福沢の経済思想を丁寧に掘り起こし解説していきます。明治一〇年代に福沢は、早くも国家権力の積極的介入による景気振興策を構想していたのです。
本書は商業ベースに乗るようなものではないでしょうが、日本の学問の水準を高レベルに保つといった観点から、積極的に評価できるものです。このような著作が刊行され、専門家だけでなく私のような一般人でも容易に読めるようになっているというのは、ありがたいことです。強くお勧めします。
先日の、
に対し、小浜さんよりご回答いただきました。お忙しい中、ありがたいことです。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/be18d67c1e4cf21505decb0588c9784a
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さっそく拙著をお読みいただき、また、いろいろとご指摘いただき、ありがとうございます。
ご質問にお答えします。
(1)これは、特にだれかれを想定しているということはありませんが、朝日新聞の「アエラ」などに、福沢は軍国主義者だったというような決めつけ記事を見かけたことがあります。また、進歩主義リベラルというのは、日本では戦後になってから生じた思想現象ですから、そのポジションから福沢を切り取ることは、後付けのバイアスがかかることをまぬかれないと思います。丸山にもややその傾向が見受けられます。ここの拙文はそうした後付け的な解釈からなるべく自由な立場で、時代のなかの福沢をもう一度きちんと見直そうとするための、一種のレトリックであるとご理解ください。
(2)福沢のなかには、長い間の封建制身分社会が、多くの日本人の中に卑屈な「感情」を植え付けたために、そこから脱却するのでなければ、欧米並みの文明社会は望めないという思いがありましたから、そういう背景を想定して、「いわれなき尊卑感情」と書きました。あれは「福翁自伝」でしたか、馬に乗ってきた百姓(?)が、武士である福沢に出会ったときに慌てて馬を降りて、へいこらした時に、そんなことをしないで堂々と馬に乗れと言ったという有名なエピソードがありますね。これが事実とすれば、福沢が「自主自立」の精神を一般庶民のなかにも育てたいと思っていたことは確実で、「学問のすゝめ」にもその思いが反映していると思います。福沢がここで意識しているのは「感情」であって、職業の貴賤という社会構造的な事実ではないと考えます。
(3)これは、主としてイギリスやアメリカをイメージしています。たしかに、必ずしも「伝統的な」と決めつけることはできないかもしれませんが、孤立に追い込まれた結果、大東亜戦争で大失敗を喫したこと、戦後アメリカに押しまくられたままになっていることなどに見られる外交下手を考えると、こうした近代日本政治史が、幕藩体制の中核が揺らいだ時に、藩どうしが結束できずに空気で動いてしまう欠点が露出したことと結びつくように思われます。ちなみに「......感じるのは、筆者だけでしょうか」という問いかけの形になっている文体の含みを読み取っていただければ幸いです。
(4)はい。その理解で結構です。松方財政政策の影響が深刻なデフレとして顕著になるのは明治18年くらいですが、その当時の福沢の「時事新報」における経済への言及については、めぼしいものとして「貧富論第一」がありますね。しかしこれはあまり論及に値するとは考えませんでした。そのためか、うっかり頭から飛んでしまったのだと思いますが、いずれにしても、「明治24年まで経済論らしきものは執筆していない」という言い方は不正確のそしりをまぬかれませんね。再版の機会でもあれば、訂正しましょう。ちなみに「貧富論第二」は明治24年です。
なお、藤原昭夫氏の著作については、不勉強にて、今回念頭にありませんでした。今後の参考とさせていただきます。
ただ、一般的には福沢の経済論が、その名声に比してさほど話題になっていないことはたしかに思われます。
(5)お挙げになっている儒者や国学者のなかでは、荻生徂徠と石田梅岩(彼はやっぱり儒者に入るでしょう)についてはきちんと読んでおりますし、彼らを取り上げて論じたこともあります(『表現者』73,74号)。徂徠はたしかに「単なる節倹奨励主義」ではありませんね。彼の現実主義的な幕政改革論は、いま読んでもとても参考になります。梅岩は、商人思想家として、手堅い商売と商人倫理の確立のために、かなり節倹を奨励していると私は理解しております。放埓を戒めたり、ある人物(あれはかなりの堅物ですね)の生き方を設定して、学ぶべきモデルとして提出している点などから見て。
なお、ここで私が「儒教道徳に裏付けられた『節倹奨励主義』」としてイメージしているのは、これら独特の思想的な境地を切り開いた人々よりも、むしろ福沢の同時代に支配的だったと思われる「儒教道徳」という一般的なエートスについてです。まだ資本主義の原理が明らかでない時期ですから、こうした道徳(一種の精神論)が力を持っていたのは、ある意味で当然のことと思われます。また、江戸時代の三大改革は、みな倹約を奨励していますが、その面ではことごとく失敗しています。にもかかわらず、幕末においては、まだそういうことを反省するような気風の転換に至っていなかったというのが、実情ではないでしょうか。これもまた当然のことと思います。
(6)残念ながら、藤原氏の指摘に対していまここで議論する資格がありませんが、福沢が「行盃人」のたとえを持ちだしていることは確かですね。このたとえの適不適についても議論の余地がありそうですが、それはともかく、拙著の引用箇所では、福沢ははっきりと貨幣を「預かり手形」と規定し、それが譲渡性を持つことによって通貨となると説いています。「預かり手形」とは、三橋氏などの説く「借用証書」という規定と変わりないのではありませんか。支払者が小切手を振り出すのと同じとも言えます。もちろんこれが国民の信用によって一国の通貨となった時(つまり日銀が支払者として「小切手」を市中銀行に対して発行するようになったとき)、流通手段としての機能を持つことは当然ですが、私はそれはあくまで貨幣の機能であって、本質ではないと考えます。現にいまのデフレ期のように、いくら日銀当座預金が膨れ上がっても、市中に流れなければ、流通手段としての機能はおぼつかなくなりますが、しかし、日銀が銀行に対して振り出した「約束手形=借用証書」としての本質は維持されています。
以上、お答えになりましたでしょうか。
まだこれ以外にも疑問点、批判点など多々あるやもしれませんが、申し訳ありません。現在、他の仕事にかまけていて、これ以上、お答えするだけの心の余裕がありません。なにとぞご容赦ください。
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取り急ぎ、(5)の評価は、
『日本式 経済論』の以下の人物などを参照してみてください。その上で、判断していただければと。
あとの項目については、別途、少しだけ論じてみることにします。
施 光恒さんの『本当に日本人は流されやすいのか (角川新書)』を読んでみました。一種の日本論(日本人論)として読めると思います。
特に、社会心理学者の北山忍氏などが論じている欧米文化で支配的な「相互独立的自己観」と、日本や東アジアで支配的な「相互協調的自己観」の対比は面白いです。ただ、どこかで似たような分類を聞いたことがある気がして、思い出してみたのですが、西部邁氏の『知性の構造』に類似概念が示されていました。
西部氏は個人主義を「相互的個人主義」と「原子的個人主義」に分け、集団主義を「伸縮的集団主義」と「硬直的集団主義」に分けています。それらをX軸とY軸に分けて、「文明の四類型」(『知性の構造』の73番目の図)を表現しました。そのとき、日本は「伸縮的集団主義」と「相互的個人主義」によって区分けされて表現されるわけです。ちなみに、「伸縮的集団主義」と「原子的個人主義」がアメリカ、「相互的個人主義」と「硬直的集団主義」がロシア、「原子的個人主義」と「硬直的集団主義」がヨーロッパ(ドイツ、イギリス、東欧諸国、フランスでさらなる分割が示される)といった具合です。
こういった北山氏や西部氏のように、おおざっぱにでも区分けしてみることで、気づくことが増えてきて有益だと思われます。もちろん、区分けが簡易すぎて見失う細部もあるであろうことには注意が必要でしょうが。
こういった観点の他にも、施 光恒さんによって興味深い論述が進みます。特に、日本語の特性に基づいた解釈は重要だと思われます。なにせ、未だに〈高度な文化を有した国の中では、日本語は世界でも、最も論理性のない言語の一つである〉(『表現者75』の岸間卓蔵氏の『文芸の土壌問題 近代における日本語の宿命』)などと言ってしまう人がいるくらいですから。質の悪い欧米コンプレックスで日本や日本語を卑下する羽目に陥らないためにも、多角的な視点からの論述を見ることは勉強になります。そういった意味でも、読む価値のある本だと思います。
小浜逸郎さんの『福沢諭吉 しなやかな日本精神』を読んでみました。良書だと思うのですが、ところどころ疑問が浮かびました。以前にも小浜さんのサイトに質問したことがあったので、今回もサイトへ質問してみることにしました。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/be18d67c1e4cf21505decb0588c9784a
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『福沢諭吉 しなやかな日本精神』を読ませていただきました。良書だと思うのですが、いくつかの箇所で疑問が浮かびました。疑問点について、よろしければ教えていただけると助かります。
(1)21頁
《福沢諭吉を西欧型のリベラルな進歩主義の代表と見なすとらえ方も、国粋主義的な保守思想の代表と見なすとらえ方も、いずれも自分の都合のよいところだけを切り取った我田引水に他ならないのです。》
これらのとらえ方って、それぞれどなたのことなのでしょうか? 丸山真男氏と西部邁氏のことかなと、私の頭には浮かびましたが...。
また、私の意見ですが、福沢諭吉をリベラルな進歩主義の代表と見なすことも、(「国粋主義的な」という言葉を抜かせば)保守思想の代表と見なすことも可能だと思われます。なぜ、そのような見方が我田引水なのか、具体的に教えていただけないでしょうか?
(2)23頁
《さて、その数行後に、「されども今、広くこの人間世界を見渡すに」とあって、いかに現実の世が貧富、賢愚、身分、権力においてはなはだしい格差に満ち満ちているかというくだりがあります。『学問のすゝめ』はここを出発点として、この格差にまつわるいわれなき尊卑感情を少しでもなくし、多くの人が自主独立の気概をもって人生を歩めるようにするには、「学問」がどうしても必要だ、というように展開されていくのです。》
「...と云えり」とあるのを見逃しがちだというのはその通りだと思いますが、《いわれなき尊卑感情を少しでもなくし》という見解は、どこの記述を基にしているのか分かりませんでした。
『学問のすゝめ』には、《そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という》とか、《医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし》といった見解があります。また、《ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり》とか、《士農工商おのおのその分を尽くし》とか、《学問をするには分限を知ること肝要なり》といった言葉があります。
ですから、《いわれなき尊卑感情を少しでもなくし》ということではなく、「職業に尊卑はあり、そこでは学問が重要」ということを主張しているのだと思うのですが、いかがでしょうか?
(3)90頁
《しかし公武合体派の背後には、十分に開明的で優秀な家臣や思想家が存在していたのですから、弱体化しつつある幕府に代わって主導権を握ることも不可能ではなかったはずです。しょせんは、派として結束できるだけの意思統一が育っていなかったのでしょう。こういうところにも、常に周りをうかがいながら空気に迎合してしまう日本人の、主体性のなさと伝統的な政治下手が表れていると感じるのは、筆者だけでしょうか。》
ここの《常に周りをうかがいながら空気に迎合してしまう日本人の、主体性のなさと伝統的な政治下手》ということの意味が分かりませんでした。当時の日本人への評価のようですので、相対的にマシな国民が例えばどこで、そこのどういった国民性と比較して劣っていたと見なしているのでしょうか?
明治維新の評価については、トルコのケマル・パシャなどとの対比がけっこう重要だと個人的に思っていたりしますが...。
(4)248~249頁
《福沢が、明治十七年までに経済について論じたものには、『民間経済録』(明治十年)、『通貨論[第一]』(明治十一年)、『民間経済録二編』(明治十三年)、『通貨論[第二]』(明治十五年)、『貧富論[第一]』(明治十七年)などがあります。これ以降、明治二十四年に至るまで、特に経済論らしきものを執筆していません。》
本書では、松方デフレ期における福沢諭吉の経済思想には、考慮が払われていないという理解でよろしいでしょうか? 具体的に言うと、『時事新報』に連載した社説(の中の経済思想)は考慮されていないのでしょうか?
また、282頁では《これまで福沢については、政治論、学問論が中心で、経済論はあまり注目されてきませんでした》とありますが、参考文献に藤原昭夫氏の『福沢諭吉の日本経済論』(日本経済評論社)が挙げられていないのは何か理由があるのでしょうか? この著作は、福沢諭吉の経済思想を考える上で必須の文献だと私には思えるので...。
(5)249頁
《総じて福沢の経済思想は、旧社会の儒教道徳に裏付けられた「節倹奨励主義」を打ち破って、「金は天下の回り物」という原則を貫いた斬新なものです。》
失礼ながら、これは単に江戸期儒者の経済思想をきちんと読んでいないだけだと思われます。具体的には、熊沢蕃山『集義和書』、荻生徂徠『政談』、山田方谷『理財論』など。また、儒者ではないですが、石田梅岩『都鄙問答』、佐藤信淵『経済要略』、本居宣長『秘本玉くしげ』なども、単なる「節倹奨励主義」ではないという観点から重要だと思われます。
(6)269頁
《福沢はまず、通貨の本質について、それは単なる品物の「預り手形」(約束の証書)と同じであると言い切ります。これは最近、経済思想家の三橋貴明氏が強調している、「貨幣は借用証書あるいは債務と債権の記録」という本質規定とまったく同じです。また、その「預り手形」として金銀を用いようが、紙を用いようが、その機能において何ら変わるところがないとも言い切ります。こちらも、最近、同じく経済思想家の中野剛志氏が、貴金属に価値の本源があると錯覚してきた長きにわたる慣習(金属主義)が無意味であって、貨幣はただ価値を明示する印にすぎない(表券主義)と指摘した、その議論とぴったり一致しています。》
福沢の『通貨論』の記述から判断するなら、金属主義を否定し、表券主義を指摘したと見ることは可能だと思います。しかし、《三橋貴明氏が強調している、「貨幣は借用証書あるいは債務と債権の記録」という本質規定》に福沢が達していたという見解は、かなり微妙なところだと思われます。
三橋貴明氏の元ネタは、フェリックス・マーティン氏の『21世紀の貨幣論』でしょう。この著作のポイントは、マネーの本質を《交換の手段》ではなく、《通貨の根底にある信用と清算のメカニズム》としてとらえたことです。
藤原昭夫氏が指摘しているように、《『通貨論』において、福沢は貨幣の本質を、もっぱら「行盃人」のごとく商品交換を媒介して歩く流通手段たる点に求めた》ように思えます。そのため、《債権と債務の記録》というレベルに達しているとは見なせないと思われますが、いかがでしょうか?
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本書は、富岡幸一郎が西部邁の自死について書いた本、ではなく、西部邁の「死」をめぐる論稿を選んで編集したものです。本書の最後の方に、富岡による西部をめぐる「自死の思想」が語られていますが、ほとんどの割合が生前の西部の論稿になっています。
富岡もまえがきで書いているように、西部の死の思想は『死生論』でほぼ語りつくされているので、それを再販するだけで良いではないかと最初は思いました(『死生論』そのものを購入しやすい形で再販すべきではありますが)。ですが、読み進めていくうちに、論稿の選択がよく練られており関心しました。特に『死生論』から『妻と僕』、そして『生と死』と続けて論稿をつなぎ、一冊にまとめることには価値があると考えを改めました。
本書に記載されている西部の文章は、以前にすべて読んでいましたが、あらためて読んでみると、やはりさすがだと感心させられます。ところどころ、細かいところに西部が不快感を表明しており、それはちょっと言いがかりだと感じなくもないですが、全体を通して考えるに足る内容があふれています。
ふしだらに生きており、それで良いと思っている人は、見る必要のない書物です。しかし、何とか真剣に生きたいと考えたことがある人なら、本書を手に取ってみることをお勧めします。西部の意見に同意するにせよ、反発するにせよ、それは挑戦してみる価値のあることだと、私は思うからです。
その際に注意すべきことを述べておくなら、反発するのなら、真剣に反発してください。そうしないと、おそらく卑劣さをさらけ出すことになるでしょう。西部の思想は、薬にも毒にもなりえるものです。うかつに近づくと、大怪我をすることになります。注意が必要です。
ゴールデンウィークということで、前々から読もうと思っていた『ポスト・ケインズ派経済学』に手をだしてみました。でも、こういった本は少し割高ですよね。5千円を超える本を気軽に買って読めるのは、社会人の特権ですな。学生時代なら、図書館に入るまで待つパターンですから。
貨幣供給、「有効需要の理論」、ポスト・ケインジアンが共有している核心的な命題、「ホリゾンタリスト」(horizontalist)と「構造論者」(structuralist)、長期における「粗調整」(coarse-tuning)と短期における「微調整(fine-tuning)、「機能的財政」(functional finance)アプローチなど、ポスト・ケインズ派の重要な用語の概要を手っ取り早く知ることができて有益です。
ポスト・ケインズ派には、参照にすべき見解が多々あるのですが、やはり異端派にとどまっているのもやむを得ないという面も見えてきます。正統派もおかしいですが...。経済学って、学者の変なこだわりが、全体の見通しを悪くしている感じですよね。正統派も異端派も、互いへの批判にはうなずけることが多いのですが、固執しているところは、何を言っているのだろう?って感じを受けてしまいます。
経済学って、どの派閥も一理はあるけど、それだけでは本質を見失うように感じられます。異なる学派の見解を知っておくことは重要かもしれません。内容的には、マルク・ラヴォア『ポストケインズ派経済学入門』や、内藤敦之『内生的貨幣供給理論の再構築』などと重なるところが多いです。合わせて読むと理解が深まりますが、どれか手に入りやすいものから読めば良いと思います。
GWということで、いろいろな本を読んでいます。
まとまった時間があるので、今まで機会がなかった高坂正堯さんの著作をいくつか読んでみました。
・『国際政治――恐怖と希望』
・『世界地図の中で考える』
・『古典外交の成熟と崩壊』
・『文明が衰亡するとき』
・『近代文明への反逆――社会・宗教・政治学の教科書『ガリヴァー旅行記』を読む』
・『世界史の中から考える』
・『現代史の中で考える』
とりあえず、上記の7冊を読んでました。分かりやすく、面白かったです。予備知識なしでも問題なく読めると思います。特に国際政治の入門書としてすぐれていると思います。そういった意味で、私は読む時期が少し遅かったですね(苦笑)。