『ことばの闘い』「倫理の起源58」についての議論(3)

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 一昨日昨日の続きです。

 質問に対する回答をいただいたので、私の見解を「倫理の起源58」のコメント欄に書いています。

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小浜さん。回答ありがとうございます。
質問に対する回答をいただきましたので、私の見解を述べます。

特攻を選択した誘因として、〈上層部の圧力〉や〈仲間意識〉が挙げられるという点について同意します。また、〈「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかった〉特攻隊員がいたであろうことも同意します。

ちなみに、私は林道義氏に会ったことも著作を読んだこともありません。林氏に個人的な好悪の感情は皆無です。ですから、ここで述べる見解は、「倫理の起源58」の記述を基にし、できるだけ客観的に考えた結果にすぎません。

その結果、林氏の述懐については、私はまったく賛同できません。
以下、その理由です。

まず、当の特攻隊員がどう考えていたのかについてですが、何重ものクッションが入っている影響もありますが、林氏の述懐は曖昧で分かりづらいです。文章を読んだ上で、私は次のどちらかだと推測します。

(1)この特攻隊員が、〈自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけない〉と言葉で家族に伝えた。そして、その言葉を林氏が伝え聞いた。

(2)この特攻隊員の雰囲気から、家族が〈自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけない〉という印象を受けた。そして、その印象を林氏が伝え聞いた。

(1)でも(2)でも、私の結論に違いはありません。また、小浜さんの〈これはいとこさんが自分で述べたのではないでしょうね〉という意見を尊重し、(2)だと見なして議論を進めます。

林氏は、〈志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。〉と述べています。ですから、この特攻隊員に二つの人物像が提示されたことになります。

(A)自分は死にたくないが、国のためには行かなければならないと考えた人物。
(B)国という公のために死にたくないが、強制されたのでしょうがないと考えた人物。

この(A)と(B)の人物像は、まったくの別人です。
そして、この特攻隊員の家族が受けた人物像と、林氏が述べている人物像のどちらを信頼すべきかは、私には明らかです。念のために言っておくと、私はこの特攻隊員は(A)であり、林氏は彼の人物像を自分の都合の良いように歪めていると思えます。

ちなみに、小林よしのり氏が〈特攻隊精神を美化〉しているという件については、少なくとも「倫理の起源58」には納得できる論拠が示されていないため、同意できません。その論拠を提示していただけるなら、読んだ上で再度判断させていただきます。

小浜さんは、〈「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかった〉と述べています。しかし、半ば強いられていたにせよ、「志願」して行ったのだと言うこともできます。そして、前者と後者の言い方では、当の特攻隊員の決断の重みがまったく異なってきます。

特攻を選ぶ誘因には、〈上層部の圧力〉の他に、「国という公のために」という理由も当然挙げられます。それらの要因が複雑に絡み合うわけです。そのとき実存的に考えるなら、当の特攻隊員が、(いくつもの誘因の中で)自分の死を決断した最大の動因が何なのかということを問わざるをえなくなります。
最大の動因が、強制されたものなのか、公心に基づいたものなのかが問われるということです。その答えによって、公心も主体性もない人物なのか、公心を持つ主体性のある人物なのかが明らかになるということです。もちろん、各誘因の比重によって慎重に考えなければならない問題だということは分かっています。

ちなみに〈仲間意識〉についても、そこに公があるかどうかで、評価はまったく異なります。その仲間意識が、警察官や自衛隊員が抱くものと同系のものなのか、それとも仲間外れにされたくなくて道を踏み外す不良少年と同系のものなのかという区別が成り立つからです。

以上の見解から、林氏の述懐について、私はまったく賛同できませんでした。

 

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 長々と書いていますが、私の見解の筋は単純なものです。

 つまり、家族はその特攻隊員から公心を感じたのに、それを伝え聞いた林氏は公心はなかったと言い出していて、変だということです。

 

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