『ことばの闘い』「倫理の起源58」についての議論(6)

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 (1)(2)(3)(4)(5)の続きです。


 小浜氏のサイトの文章「倫理の起源58」をたたき台にし、コメントを通じて議論を展開してきました。議論を深めるためには、議論可能な相手が必要です。

 本件については、私なりにさらに色々と語ることができますが、議論そのものが成り立つのはおそらくここまででしょう。そして、議論できるところまで到達したことで、論者(私と小浜氏)の意見の相違が明らかになったと思われます。

 今までの議論を振り返ることで、同意に達したところと、意見が分かれたままのところが、観客にも明らかになったのではないでしょうか。その差異は、論者の前提の違いに由来します。その違いをさらに明確にするために、最後に一つだけ論じておきます。

 たたき台になった文章の最後のほうで、小浜氏は次のように書いています。


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 このくだりは、こうして対談後に整理された冷静な文章でさえ、読んでいて涙を禁じえないが、この部分を取り上げたのは、ここでの林氏の話そのものが私を感動させたからというだけではないのである。
 私はまさに対談者として林氏の眼前にいた。このくだりを語るとき、彼は、思わずこみあげてくる嗚咽をこらえるのに懸命だった。
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 ここで注目すべきは、〈私を感動させたからというだけではないのである〉という箇所です。

 良い文章は、論理と感情のバランスがとれているものです。「感動」は感情に訴える方法ですから、感動だけではないというのなら、次には何らかの論理性が示されねばなりません。

 しかし、ここでは、「感動」という感情に続いて、「嗚咽」というさらなる感情性が展開されているのです。感情の上塗りによって、読者を説得させようとしているわけです。

 心優しい人間には、こういった手法が効くのだと思いますが、私は非情な人間ですので、こういった手法を疑ってかかります。論理性が示されるべき場面で、感情に訴えるような手法に出会うと、そこに何かが隠されているのではないかと疑ってしまうのです。

 自分で言うのもなんですが、我ながら悪魔的ですね。


 少なくとも、観客が考えるための材料は出揃ったと思いますので、この議論はひとまずここで終了にします。


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