2015年2月アーカイブ
久しぶりの更新になってしまいました・・・。
今週はやばかったのです。
月・火・水・木と毎日出張で、送別会とかも入って、マジで更新する時間がなかったのです・・・。
そのせいで、金曜にはぶったおれてしまいました(笑)。
薬飲んで、ひたすら寝るしかないですね。
体調を崩したときは、早めにしっかりと寝ることが一番ですね。
無理して動き続けると、体調不良が長引いてしまいますし。
まだ微妙な体調ですが、だいぶ良くなってきました。
油断せずに、気を引き締めていきたいです。
ただいま。
今日は、堺へ出張でした。
朝早くから夜遅くまで。
我ながら、偉いなぁ(笑)。
明日も早いので、寝て体力を回復させます。
今日は、名古屋に日帰り出張でした。
大阪と名古屋は、けっこう近いですね。
頑張って働いてきました。
出張とかすると、出張費とかのことを考えたりします。
出張費って、移動費とか宿泊費ですね。
出張すると、けっこうな額になります。
ですから、出張にはその金額を超える付加価値が要求されるわけです。
そんなことを考えたりしたけれど、疲れたので寝ます。
明日も出張です。
私は、おそらく現代日本人の平均以上には本を読んでいると思いますが、多分、本好きという人種ではなさそうです。
私は、本が好きなのではなく、そこに示されている思想の深みが好きなのですね。
ですから、思想的な深みのない百冊の本より、深い水準に達している一冊の本を愛するわけです。
思想的な深みに接するには、他人と話すというのも一つの手です。しかし、私の経験上からは、他人と話すよりも有名な本を読む方が効率がよいのです。特に、古典として評価がある程度固まっている本には、汲むべき点が多々見られるのです。
また、テレビなどの映像よりも、やはり本を読む方が、情報量が多くて効率が良いような気がするのです。
ですから、仮に他人と話したりテレビを見たりする方が、思想的な深みに接しやすいなら、私はそちらを優先したでしょう。
これって、やっぱり本好きとは言えないような気がします。
人付き合いは面倒くさいものではありますが、やはり必要なものですよね。
特に、仕事をしていく上では、それなりの人と会っておいた方が良いと思います。
それは、皆仲良くといったような話ではまったくなく、優秀な人たちと付き合うためです。
優秀な人と出会うには、やはりそれなりの人と会う必要があるわけです。
ですから、多くの人と会って、その中から優秀な人たちと付き合うようにすべきだという話です。
これは残酷な話ですが、仕事にはそういった残酷な面があるということです。
優秀な人とは懇意にし、そうでない人とは疎遠になる。
それって、当たり前ですが、かなり重要だと思うのです。
2月28日の朝日カルチャーセンターの芦屋教室で、
佐伯啓思先生の講座『「戦後」を考える 』があります。
https://www.asahiculture.jp/ashiya/course/70867a58-b118-cbdd-9b19-545dfe0c282b
面白そうですね。
急な仕事が入らなければ、参加予定です。
最近、佐伯先生の本を読み返したりしています。
今日は、仕事でSI向けのフォーラムでした。
製品の説明員です。プレゼンします。ノリノリです。
大きな仕事を終えて、ホッと一息です。
来週は、名古屋のフォーラムにヘルプです。頑張ります。
昨日は、フォーラム準備で疲れました。
帰ってきて、すぐに寝ちゃいましたね。
だから、更新をさぼったという(笑)。
まあ、このサイトは趣味なので、仕事優先なのは仕方ないのです。
仕事を頑張って、趣味も頑張るわけですな。
今度の週末くらいに、ASREADに議論記事が掲載予定です。
まあ、本サイトをお読みいただいてくれている方々には、何の議論が載るのか十分に予想はつくと思いますが(笑)。
建設的な議論って、なかなか成り立たないわけです。
そんな中、きわめて質の高い議論が展開されていると思います。
こうご期待。
『ドラマスペシャル 永遠の 0』面白いですね。
http://www.tv-tokyo.co.jp/tx_drama_eienno-zero/
水曜に第1夜、今日は第2夜、そして明日は第3夜です。
どうしても、映画版と比較してしまいますよね(笑)。
宮部久蔵役は、映画の岡田准一さんも、ドラマの向井理さんもアリだと思います。
どっちも味があって良いですね。
他の配役は、こっちの人の方がいいなぁというのが、どうしてもありますね(笑)。
個人的な感想になってしまいますけどね。
それにしても、あの大手新聞社のエリート記者は嫌なやつですね(爆笑)。
ちなみに、ASREADに掲載された下記の記事もよろしければどうぞ。
≪『永遠の0』関連記事≫
【藤井聡『戦う以前にウソを見抜け』のウソを見抜け ―『男たちの大和』と『永遠の0』を擁護する―】
【「永遠の0」にとんでもない難癖をつけてしまった京都大学大学院教授】
小浜氏の「倫理の起源53」について、(1)・(2)・(3)・(4)・(5)・(6)の続きです。
最後に、回答しました。
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こちらこそ、有益な議論まことにありがとうございました。
意見の相違点について今後の課題とすること、および読者の判定にまかせること、同意いたします。
ただ、議論を進めていく中で、ほとんど相違点はなくなったように思えます。
(D)(H)(J)(K)の問題については、同意に達しました。
(M)の長期的利益については、私は「生の極限状況」という論点を提出し、小浜さんは「社会人感覚(自立心と実践力と法感覚)」という論点を提出されました。それぞれ、考えるに値するテーマだと思います。
また、(N)の教育の印象については、基本的には強制という印象を与えないようにすべきだと私も思います。ただし、教育の強制性に疑問を持つ私たちのような人間もいるでしょう(笑)。そういった人間には、例えば、ここの議論を参考にしていただければよいのだと考えます。
それでは、また折に触れて、議論していただければ幸いです。
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これで終わりかな。
小浜氏の「倫理の起源53」について、(1)・(2)・(3)・(4)・(5)の続きです。
小浜氏よりコメントをいただきました。
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今回の木下さんの見事な整理を読ませていただき、私もこの議論の噛み合い具合をよく確認することができました。また、意見の相違点は今後の課題としてもよいし、あるいは現時点で読者の方の判定にまかせるということでもよいと思います。いずれにしても、一致できる点が少なからず見出せたことをとてもうれしく思います。年のせいか他人との議論に対してかなり悲観的になっていたので、今回の試みによって希望が回復してきました。心から感謝します。
木下さんが議論を深めてくれた点で、なるほどと思えたのは、秩序状態と緊急事態とを区分し、前者の場合にこそ、後者の状態のための備えが必要であると力説している点です。両者がトレードオフの関係にあるのではなく、補完関係として考えるという論点にも完全に同意します。
ことに感心したのは、実際の「愛国心教育」なるものが具体的にどのようなかたちを取ればよいのかについて、(I)で、具体的な提案をなさっている部分です。こういうふうに論点をブレイクダウンしないと、お互いが「愛国心」という概念に何を込めているのかが明らかでないまま、「必要だ、必要でない」の抽象的な議論がいつまでも繰り返されるばかりですよね。
ところでこの提案の内容なら私はまったく賛成です。特に、「日本語能力の育成」というところと、「道徳そのものではなく、道徳の系譜学」というところがいい。これらについては、私のほうからもその必要をぜひ訴えたいくらいです。もっともこれをきちんとできる教師があまりいそうもないので、その育成の課題が先立つでしょうけどね(笑)。
なおまたつけ加えるなら、(M)の指摘とも絡みますが、年少者にまともな社会人感覚(自立心と実践力と法感覚)を身につけさせる教育も必要かと思います。
これからも折に触れて、有益な議論をいたしましょう。
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有益な議論が展開でき、たいへん嬉しく思います。
文庫本が好きです。
単行本は、大きくて場所をとってしまいます・・・。
最近は、最初から文庫という形も多いようです。
しかし、昔に単行本で出て、後に文庫本になった本もたくさんあります。
ですから、相対的に良書が文庫本に多かったりするのです。
それなりに面白くないと、単行本から文庫化されませんからね。
というわけで、本を整理するときは、単行本から整理するようにしていたりします。
文庫本を一冊もって、どこかで読むっていうのも贅沢ですよね。
私は読まずに積んでいる本はあまりないのですが、読んだ後の本は積んでいます(笑)。
さすがに本を片付けなければと思い、整理しています。
しかし、本を整理するには勇気がいります。
整理する前に、中身の確認が必要です。
中身の確認には、時間がかかります。
よって、なかなか片付きません。
昨日も、中身を確認して、苦労して三冊を片付けたのです。
そして、今日は本を三冊買ってしまったのです。
人の業とは深いものです。
今日は寒かったですね。
日中、雪とか降ってましたし(笑)。
寒いと、やる気が微妙になるから困りものです。
今日は、仕事でシミュレーションソフトをずっといじっているつもりだったのに、色々と他の割り込みがあって大変でした。
電気屋に業務用のUSBを買いに行ったりしましたが、やっぱり寒かった。
シミュレーションも終わらせたし、臨機応変に対応するのです。
マルチタスクは苦手だけど、頑張ります。
社会人ですし。
社会人って、大変ですよね。
小浜氏の「倫理の起源53」について、(1)・(2)・(3)・(4)の続きです。
お返事に対し、再回答しました。
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小浜さん、真摯なお返事ありがとうございます。
自画自賛になってしまいますが、建設的な議論が展開されており、たいへん嬉しいです。
議論の内容が多岐にわたっているため、見ていただいている方たちのためにも、少しまとめさせてください。私の認識不足などあれば、ご指摘していただけると助かります。
(A)愛国心教育について
感情育成としての愛国心教育については、その程度について微妙な差はあるかと思いますが、その必要性は共有できていると思います。ありがとうございます。
(B)ナイーヴな愛国心教育について
名前を挙げられた三名については、正直なところあまり興味がありません。彼らの主張が経済政策の重要性を引き下げたり、自国を不用意に持ち上げたりする言説なのでしたら、具体的な文章を基に批判していけば良いと考えます。
(C)愛国心教育と経済政策について
> 愛国心教育も適切な経済政策も、まさに統治の方法の一つですが、
> 私は後者のほうがはるかに重要な意味を持つと考えています
相対比較になりますが、前者は感情に関わり、後者は理性に関わっています。
論理には感情と理性の両方が必要であり、ヒュームを参照するなら感情の方がより重要だと言えなくもないですが・・・。どちらもそれなりの独立性があるのですから、私は両方有益なのだから、両方やれば良いのだと考えます。
(D)衣食足りて、について
> 衣食足りて礼節を知る――もし国の代表がこの優先順位を誤れば、
> いくら愛国心教育や道徳教育に精力を注ごうと、国は乱れ、
> 愛国心などはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。
ここが、私と小浜さんの思想上の違いになります。
西部邁さんがどこかで述べていましたが、衣食足りて礼節を知るというのが片面の真実だとしても、衣食足りて礼節を忘れるという片面の真実もあります。
私は、そもそも衣食足りず状態になったときのためにこそ、愛国心教育が必要だと考えています。後述の(H)(J)(K)の見解につながります。
(E)道徳的頽廃について
昔はよかったというのがウソだという意見には、犯罪率などの面から同意します。
ただ私は、道徳は秩序状態と緊急事態の両面からとらえなければならないと考えています。その観点から、一側面からは頽廃しているとは言えませんが、一側面からは頽廃していると言えると思います。例えば、平然と「アメリカに守ってもらえばよい」と言うような人がいることなど。
この点については、おそらくお互いの認識にズレはないと思います。
(F)国民の心情について
> それは、私自身が、このシリーズの相前後する部分で、
> 国家機能は同じ国民であるという心情によってこそ支えられると書いているのと、
> そんなに違わないと思うのですが。
感情育成としての愛国心教育の必要性が共有されているので、同じ認識ですね。
(G)愛国心のニュアンスについて
「愛国心」という言葉があいまいに使われているなら、不毛な感情的対立になる理由を検討し、不毛にならないように定義づけをきちんとして論ずべきだと考えます。
「愛国心」という言葉はやや感情的に過ぎることには同意しますが、「心情の一致」とか「同国人意識」という言葉だって感情的でしょう。理性だけでは、「心情の一致」も「同国人意識」も原理的に出てこないからです。
また、「愛国心」の代わりに「同国人意識」という言葉に置き換えても、(右翼方面はともかく)左翼方面は同じようなイチャモンを付けてくると思います。
(H)危機の有効性の条件について
> こういう国では、
> 経験的な契機に比べて意識的な愛国心教育の効果はたいへん低いと思います。
> では反対に、国の現実的状態が乱れているところで愛国心教育を躍起になって施せば、
> それが一般民衆の間に育つことによってそうした国の危機を克服できるかといえば、
> そちらのほうもまず望めないでしょう。
う~ん。秩序状態も緊急事態も、どちらも望み薄と言っているように聞こえます。確かに、乱れきったところでは無効だとは思いますけどね。
二点ほど述べておきます。低くても有効ならちゃんとやろうというのが一点。それと、まあまあうまく行っているときに感情育成としての愛国心教育を行っておくことで、危機に際して団結力が生まれます。つまり、危機に際しての備えとして、意識的な愛国心教育が必要だというのがもう一点です。
(I)健全なナショナリズムについて
> それは、島国という地政学的条件や、言語の同一性(他の文化圏との異質性)、
> 相手をよく思いやる伝統的な慣習、などですね。
そうだと思います。だからこそ、意識的な愛国心教育が必要なのでしょう。
具体的には、国語教育(日本語能力の育成)・歴史教育(まず日本史、次いで世界史)、思想史教育(道徳そのものではなく、道徳の系譜学)が重要ということになります。
(J)意識されないときについて
> こういうものはふだんあまり意識されませんが、
> それはまさにありあまる水や空気のようにありがたいものだからでしょう。
> こういう国では、
> 私が述べたような経験的な契機によってより深く意識されることが多いと思います。
やはり、ここが意見の相違になります。
秩序状態のときにこそ、緊急事態を想定していなければなりません。この考えは、会沢安の『新論』などから学んだことです。
ですから、秩序状態のときの安全や便利さが自国への愛着になり、緊急事態への対応力につながるなら、それは肯定すべきものになります。しかし、緊急事態においてより安全で便利なところへ逃避するものでしかないなら、それは肯定できなくなります。
(K)統治について
> 私は、統治によって、
> 常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できるなどと想定しているわけではありません。
> ただよりよい統治とは何かということを考えているだけです。
> 少なくともそれを考えるという点で一致できるのでなければ、
> 愛国心教育の効果についての議論も意味がないでしょう。
よりよい統治を考えるという点では、私たちは一致しています。逆に、それについて一致していない人など、極端な反国家主義者を除けばほとんどいないでしょう。
私が言いたいことは、常によい統治を実現できるわけではないからこそ、緊急事態を想定せねばならず、そのときのために秩序状態のときの教育が重要になるということです。
(L)「自分たち」について
たとえ日本について同国人意識を有する人でも、「自分たち」の範囲は状況に依存するので、そこは明確化しておかないと議論が混乱するということですね。ご提案のような「一般国民」や、「日本国民」といった言い方をするのが有意義だと思います。
(M)長期的利益について
> 一番有効なのは、それによって多少の不利益をこうむっても、
> 全体としては、また長い目で見れば、
> まあ従っておく方が身のためだなと感じさせる納得の道をつけてやることだと思います。
長期的利益のために短期的不利益を享受させる方法の採用について、基本的に同意します。
ただ、それですと、特攻のような極限状況には逃げ出す人間ができあがりますね(苦笑)。
ここにも、私と小浜さんの微妙な違いがあるように思えます。ですから、私はこのような方法に「も」賛成すると言います。
私にはさらに考えておくべきことがあります。それは、この世は不条理なものであるが故に、いかんともしがたい状況がありえるということです。そのときを想定している者は、自分がそのような状況に遭遇することを踏まえた思想が必要になるのです。
オルテガの『個人と社会』に、次のような文章があります。
環境がわれわれに対してどのような出口も、したがってどのような選択もゆるさないかに見える生の極限状況を叙述しようとするとき、われわれは「剣と壁のあいだに立つ」という。死は確実なものであり、どのような抜け道もない!少しでも選択の余地があるだろうか。しかしながら、そうした表現は、剣と壁とのあいだの選択をわれわれにゆるすものであることは明らかである。これは人間の恐るべき特権であり、享受することもできれば苦悩の原因ともなる光栄である――すなわち卑怯者の死か英雄の死か、醜い死か美しい死か、など自分の死の姿を選べるという特権である。
(N)教育の印象について
> なるべく上からの強制的な「教育」という印象を与えない形で、
> 自然に、その方が自分にとっていい、と思わせるやり方のほうが得策だと思います。
これについては、おそらくはその通りなのでしょうが、私は違う道を模索しています。
それは、強制的な教育の必要性を教えた上で、教育を実施するという方法です。得策という観点からは、私の方法が今のところ不利なことは認めますが、今後煮詰めていきたいと考えています。
(O)ルソーについて
『表現者』54号掲載の論考を再読させていただきました。論考のルソーについての見解に同意します。
議論を通じて、大まかな同意には至ったのではないかと思われます。
微妙な意見の相違は、(D)(H)(J)(K)(M)(N)に見られます。
(D)(H)(J)(K)については同じ論点であり、秩序状態と緊急事態の関係にポイントがあります。
私なりに要約すると、小浜さんは秩序状態のときの愛国心教育よりも、緊急事態による理性的な国民意識の高まりが有効と言っているように聞こえます。
それに対して私は、緊急事態において理性的な国民意識が働くためには、秩序状態のときの愛国心教育が重要だという見解です。つまり、比較相対的に見てどちらが有効かを論じるというのはあまり有意義ではなく、補完関係として考えるべきだと言いたいのです。
また、(M)と(N)の見解の相違については興味深いですね。それぞれの人生観によって、意見に相違が生まれているような気がします。
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いかがでしょうか?
論点は明確になっていると思います。
小浜氏の「倫理の起源53」について、(1)・(2)・(3)の続きです。
小浜氏から返信がありました。
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コメント、ありがとうございます。
ちょっと他のことにかまけていて、お返事が遅くなりました。
なかなか手ごわい反論ですね(笑)。
木下さんの、感情育成としての愛国心教育はやはり必要であるという論旨は、よく理解できました。以下の部分、よく論理の筋が通っており、なかなか微妙なところを突いたバランスのある主張で、これなら「しないよりはした方がマシ」という程度で、その必要を認めてもよいと思います。
≪小浜さんが誰を念頭においているかは分かりませんが、仮にそういった教育が劇的な効果を生むと主張する人がいたら、たしかに言い過ぎだと思います。ですから、そういった教育の効果が長期的なものだとか、微弱だとかいう意見には一理あると思います。
しかし、有益な効果が絶大だろうが微弱だろうが、ベクトルが有益な方へ向いているなら為すべきでしょう。過剰な愛国心教育が危険になるのは当然なので、適切な教え方を考えた上での話になりますが。≫
ただ、私がサヨクでないことは先刻ご承知でしょうが、やはり、実際に愛国心教育の必要を説いている人たちの熱心ぶりを見ていると、彼らのナイーヴさが気になります。よりよい、実力ある国家共同体をつくるために、どこに主力を注ぐべきかという点に関して、少々力の入れ場所をはき違えているのではないかという疑念がずっと私の中にあり、それが、愛国心教育の効果薄弱を論じる隠れたモチーフの一つになっていました。
具体的に名を挙げましょう。八木秀次さんや渡辺利夫さん、平沼赳夫さんといった人たちです。私は彼らの意図はよくわかりますし、著作から勉強させてもらったこともあります。その思想に共鳴できる部分もあって、実際に協調したこともあります。また彼らはけっして「劇的な効果を生む」と主張しているわけではないし、「過剰な愛国心教育」を目指しているわけでもありません。しかし私が彼らをどうもナイーヴ(愚直)だなあと感じるのは、愛国心教育や道徳教育こそが一番大事なところなのだと信じているフシがあって、そのために、たとえば経済政策の重要さなどに視野が及ばなくなっている点、また、どうしても自国のいいところばかりを強調してしまう主観的な傾向から免れがたいように思える点です。
愛国心教育も適切な経済政策も、まさに統治の方法の一つですが、私は後者のほうがはるかに重要な意味を持つと考えています(その点で、私は安倍政権に不満を持っているわけですが)。
衣食足りて礼節を知る――もし国の代表がこの優先順位を誤れば、いくら愛国心教育や道徳教育に精力を注ごうと、国は乱れ、愛国心などはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。
それから、この人たちの愛国心教育提唱のモチーフには、昔に比べていまの時代(戦後日本)には一種のモラルハザードが起きているという危機意識が強く、それを個人主義の弊害と結びつけて、何とかしなければならないという信念に凝り固まっているように見える点です。しかし、ある側面ではたしかにそういうことが言えても、私は全体としていまの日本が昔よりも道徳的頽廃の度を強めているという見方を取りません。昔はよかったというのはウソです。
ここでは述べませんが、これには多くの社会学的、統計学的な証拠を示すことができます。だからこそ、震災や他国の侵略圧力やテロなどがあると、愛国心教育を施したわけでもないのに、日本人同士助け合おうという合意(理性的な国民意識)がかなりの割合でいっせいに立ち上がるのだと思います。
また、感情の共有がなければ理性的な公共心も成り立たないというご意見にも賛成です。それは、私自身が、このシリーズの相前後する部分で、国家機能は同じ国民であるという心情によってこそ支えられると書いているのと、そんなに違わないと思うのですが。
繰り返しになりますが、私は「愛国心」という言葉のニュアンスが持っている幅の広さ、つまり概念のあいまいさが、ポジティブ・ネガティブ両面の価値観を与えて、そのために不毛な感情的対立を生じやすいことを問題としているのです。「心情の一致」とか「同国人意識」という言葉に比べて、「愛国心」という言葉はやや感情的に過ぎ、「それを持たない奴は非国民だ」とか、「そんなものを大切にするから戦争を呼び込むのだ」とかいった断定につながりやすいと思いませんか。つまりある場合は、粗野な排外主義に結びつき、別の場合には、国家の役割(人倫性)をきちんと認めずに空想的な平和主義・コスモポリタニズムに走る傾向を助長するーーそんな気がしてならないのです。
次に木下さんは、私が、〈日本の外に出て〉行くことや、〈内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機〉について、〈有効〉だと述べたことについて、必ずしも有効とは思えないと反論しています。
これも私の舌足らずが災いしているかもしれませんが、私は、愛国心教育の有効さを頭から信じるよりは、比較相対的に見てそういう自然な成り行きのほうが有効に思えると言っているだけです。ただし、これには条件が必要ですね。その条件とは、実際に自分の国の現実的状態(治安、経済、政治、安全保障、生活の利便性その他)がまあまあうまく行っていることです。そしてまさに日本は今までのところ、客観的に見て、他国に比べてこの条件がかなり満たされています。こういう国では、経験的な契機に比べて意識的な愛国心教育の効果はたいへん低いと思います。
では反対に、国の現実的状態が乱れているところで愛国心教育を躍起になって施せば、それが一般民衆の間に育つことによってそうした国の危機を克服できるかといえば、そちらのほうもまず望めないでしょう。それこそ国民は逃げ出すほうを選ぶでしょう。
木下さんは、外国に行って外国かぶれになったり日本批判をし出す人はいくらでもいると述べています。これは日本に限らず、一般論としてはその通りでしょう。しかし私は日本の健全なナショナリズムが何によって支えられているかということを問題にしたい。それは、島国という地政学的条件や、言語の同一性(他の文化圏との異質性)、相手をよく思いやる伝統的な慣習、などですね。こういうものはふだんあまり意識されませんが、それはまさにありあまる水や空気のようにありがたいものだからでしょう。こういう国では、私が述べたような経験的な契機によってより深く意識されることが多いと思います。なお私は危機待望論者ではないので、危機などはないに越したことはないのですが、ただ現実はそういうふうになっている、と指摘したいだけです。
なおまた木下さんは、安全や便利さを期待して帰国するのではあまり意味がないと述べていますが、私はそう思いません。安全や便利さは、すべてではないにしても、一般民衆がその国を好きになる(つまり愛着を持つ)大切な理由の一つとして肯定的にとらえるべきだと考えます。だからこそ、それらを保障する統治のあり方(対外関係も含めて)が厳しく問われるのではないでしょうか。私は、統治によって、常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できるなどと想定しているわけではありません。ただよりよい統治とは何かということを考えているだけです。少なくともそれを考えるという点で一致できるのでなければ、愛国心教育の効果についての議論も意味がないでしょう。
次に、二つの「自分たち」についてですが、私自身のあるべき国家観からすれば、別に二つは矛盾していません。日本国民全体という言い方が少し強すぎて誤解を招くとすれば、一般国民と言い換えてもよい。彼らの最大の関心事が「自分たち」の幸福と安寧にあることは否定しようもありません。しかし、「自分たち」の幸福と安寧が、ただ特定のかぎられた個人や集団のそれだけを意味するのであれば、当然、国家全体の秩序と平和は維持できませんね。過剰なエゴイズムや物欲に走って得々としている人たちを、少しでもいいから、進んでそれら(の一部)を捨てる気持ちにさせるには、どういう方法が一番いいか。議論はたぶんここをめぐっていると思うのですが、まず、彼ら(たとえばかなりブラックなグローバル企業)に「愛国心を持て」とか「いざというときには国家のために身を捨てろ」などといくら説いても無駄でしょう。ではどうすればよいか。
法による規制というのがすぐに出てくる答えですが、この法規制にしても、どうやってその意義を理解させるのかという問題が次にやってきます。
私はこの場合、七割くらいは性悪説、あとの三割は性善説に立っているので、一番有効なのは、それによって多少の不利益をこうむっても、全体としては、また長い目で見れば、まあ従っておく方が身のためだなと感じさせる納得の道をつけてやることだと思います。仮に、こういうことが可能だとして、ではなぜそれが可能なのかと考えると、それは彼らのうちにも、他の人たちの利益と幸福につながることが結局は自分の利益と幸福に結びつく、情けは人の為ならず、そういう、いい意味での功利主義精神が、彼らにも少しは宿っているからです。これは、潜在的な公共精神の萌芽といってもいい。それをうまく引き出すのが統治の技術です。
ちなみに私は、ある精神が潜在的か顕在的かを区別することは重要だと思っています。その度合いいかんによって、公共心を強く実行に移す人もいれば、ふだんは私利私欲に走っていて、なかなか腰を上げない人もいるという違いが出てくるのでしょう。後者の人たちをアゴラに連れ出す操作(これは家庭でのしつけの段階から始まっていますね)を、広い意味で「教育」と呼ぶことに私は異議を唱えませんが、なるべく上からの強制的な「教育」という印象を与えない形で、自然に、その方が自分にとっていい、と思わせるやり方のほうが得策だと思います。、
最後にルソーの「一般意志」についてですが、これを出したのはやや不用意でした。ルソーの思想は、当時の時代背景を考えないと一筋縄では理解できない複雑さを持っており、「一般意志」の概念も、誤解を受けやすい概念ですね。ただここでは、国民の大多数に共通する意志という程度に受け取っていただければ結構です。なお、ルソーと聞くと、フランス革命の生みの親のように考えて、その結果に対する毀誉褒貶の評価と直結させて論じる人が多いですが(たとえば近代民主主義の輝かしき元祖、逆に悪しき全体主義の源)、思想と現実とは必ずしも一致しませんから、私はこうした考えを取りません。
ちなみに、ご関心があれば、次の拙稿を参考にしてください。
①『表現者』54号掲載「誤解された思想家たち――ジャン・ジャック・ルソー」
②佐伯啓思著『西欧近代を問い直す』(PHP文庫)の巻末解説
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真摯な返信をいただきましたので、じっくりと考えてから回答しようと思います。
正直なところ、この議題について返信はもうないと思っていました。
一流の知識人が、私のような素人に対し、きちんと回答していただけるというのは嬉しいものです。
自画自賛になってしまいますが、ここにはまともな議論が展開されていると思います。
もう2015年かよ、と思っていたら、その2015年ももう一ヶ月経ってしまいました。
月日の経つのは早いものです。
けっこう、いろいろやっていたりはするのですけどね。
ただ、仕事もプライベートも忙しくて、なかなか本を読んだり文章を書いたりする時間が取れませんね。
健康にも気をつかって運動もしないとですし。
人生には、やるべきことがたくさんあります。
なまけずに、一つ一つとこなしていくしかありませんね。
和歌山から帰ってきました。
和歌山って、良いところですね。
大阪からですと、距離もそこそこ近いので、時間もそれなりで行けますし。
旅費もそれなりで行けますし。
とりあえず、疲れたので今日は寝ます。
和歌山へ行ってきます。
それでは。
ASREADに【家族と国家のおはなし】が掲載されました。
天才劇作家カレル・チャペックの最後の戯曲を参照し、家族と国家の問題に踏み込んでいます。
世間的な評価は分かりませんが、個人的にはかなり深い論点を示せたと思います。
また、よろしければ、以下の参考記事も合わせてお読みください。
参考記事
・『永遠のゼロ』を私はこう見る(小浜逸郎氏の記事)
・倫理観の相克と融合 ―小浜逸郎氏の記事に応える―(上記記事への応答)
・【世代論特集】世代間で受け継いで行くもの
・ナショナリズム論(1)・(2)・(3)・(4)・(5)・(6)・(7)
小浜氏の「倫理の起源53」について、(1)・(2)の続きです。
私の質問に対し、小浜氏が返信してくれましたので、それに対し回答しました。
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小浜さん、丁寧な返答ありがとうございます。
まず①と②については、そのような傾向性があることについて基本的に同意します。
それを認めた上で、私は日本の自然や偉人や文化について教育で教え込むことが必要だと主張します。
小浜さんが誰を念頭においているかは分かりませんが、仮にそういった教育が劇的な効果を生むと主張する人がいたら、たしかに言い過ぎだと思います。ですから、そういった教育の効果が長期的なものだとか、微弱だとかいう意見には一理あると思います。
しかし、有益な効果が絶大だろうが微弱だろうが、ベクトルが有益な方へ向いているなら為すべきでしょう。過剰な愛国心教育が危険になるのは当然なので、適切な教え方を考えた上での話になりますが。
教育の効果の検証が困難だということにも同意しますが、それはどれだけの有効性があったか分かりにくいということしかなく、その必要性の否定にはならないでしょう。
私のいう「愛国心」という言葉は、〈理性的な公共心〉というより、その前提となる「感情の共有」に関わっています。〈「愛国心」という感情的ニュァンスの濃厚な言葉〉という解釈で合っています。国民意識は、理性的な利益計算ではなく、感情の共有によって可能になると考えるからです。感情の共有がなければ、そもそも理性的な公共心が成り立たないでしょう。
小浜さんは、〈日本の外に出て〉行くことや、〈内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機〉について、〈有効〉だと述べておられます。
しかし、私にはそれらは必ずしも有効だとは思えません。
前者については、それで日本好きになる人もいるでしょうが、外国かぶれになって日本批判し出す人だってたくさんいます。日本好きになって帰ってくる場合でも、それが安全だからとか、便利だからという理由ではあまり意味はないでしょう。
後者については、外からの危機は他国の意思によるため日本人がどうこうできるものでもないですし、内からの危機については有効だからといってわざわざ作り出すのは馬鹿げています。
そもそも内外の危機において、自国を見捨てて他国へ脱出する例は人類史において山ほどあります。特に、安全や便利さが理由で自国を好む人は、危機の際には真っ先に安全で便利な他国へ逃げ出すでしょう。
少なくとも、私には日本の自然や偉人や文化に対する敬意があります。その敬意に基づいた愛国心が少しはあります。その愛国心が私に無いなら、私は海外に行けば、そこにかぶれて日本批判するでしょうし、日本の危機には他国へ逃げ出すでしょう。
次に、〈自分たち〉という言葉が、〈日本国民全体〉を意味しているという点についてです。
「倫理の起源53」には、「自分たち」という言葉が二回出てきます。まず一回目の〈自分たち〉について、小浜さんは、〈自分たちの明日の生活をどうするかや、いかに幸せな人生を送るかが大半の人たちの共通した関心事であり、経済がそこそこ豊かで安定している限り、国家そのものを意識する人がそもそも少ないからである〉と述べているではないですか。
それなのに、二回目の〈自分たち〉という言葉が、〈日本国民全体〉を意味していると言われても、論理に飛躍があると感じられます。
そして、二回目の〈自分たち〉という言葉が〈日本国民全体〉を意味しているのを認めたとしても、なぜ〈自分たち〉を〈日本国民全体〉だと考えなければならないのか、どうして〈日本国民全体〉だと見なすことができるのかという問題が生まれます。
小浜さんは、①と②を根拠にし、その難しさを述べていたのではなかったのではないでしょうか。
〈自分たち〉という言葉が、〈特定の個人・団体〉であることは簡単です。しかし、〈自分たち〉を〈日本国民全体〉だと見なしうるには、「何か」が必要だと私には思えます。
統治によって、常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できると想定することは幼稚です。統治者が善意に基づいていたとしても、危機は発生し、〈自分たちの生活の安寧〉を犠牲にしてでも国家を護らなくてはならないときがありえます。
具体的に言うなら、金持ちや権力者が、自分たちの不利益を享受しええる「何か」がなければ、国家は存続しえないということです。その「何か」に該当するものとして、自国の自然や偉人や文化に対する敬意を挙げることができます。伝統や歴史と言っても良いでしょう。それらが教育なしに成り立つと考えるのは、あまりに無理があると思います。
そういった「何か」が(潜在的にせよ顕在的にせよ)あるならば、外国体験や自国の内外の危機に国民意識は沸き立ちます。しかし、その「何か」が無いのなら、外国体験は外国かぶれを産み出し、危機には国外脱出する人民を産み出すだけでしょう。
また、少なくとも私には、〈ルソーの言う「一般意志」〉が『社会契約論』のそれなら、それは論理的に破綻していると考えています。
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両者の見解の相違が、明確化されてきました。
この議論においては、論者がどのような前提を置いているのかを考えながら見ていただけると、実りあるものになると思われます。
返信がありましたら、続いて小浜氏のサイトのコメント欄に書き込みます。返信がないようでしたら、続きは本サイトのみに書きます。