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『桜の下 序章』

 彼女は、にっこりと僕に微笑んだ。
 僕は、立ちすくむ。何故? その笑顔に、僕は何を見たのだろうか。彼女の笑顔に立ちすくむ? 立ちすくんだ僕? 僕は、自分の反応に驚いた。僕は、何故、立ちすくんでいるんだ?
 桜の花びらが、静かに舞っている。
 体を緊張で強張らせている僕から離れ、彼女は、道端の石を拾う。その石は、彼女の手のひらにすっぽりと納まった。まるで、彼女の手のひらに納まるために、そこに、その形であったかのようだ、と僕は思った。
 たまたま偶然、彼女の手のひらに納まる石がそこにあったのではなく、彼女の手のひらに納まる石がなければならなかったから、石はそこになければならなかった・・・。だから、その石がそこにあることは、偶然ではなく必然・・・。・・・・・・僕は一体、何を考えているんだ・・・?
 彼女は、その石を持ったまま、僕に近づいて来た。僕は、視線だけをその石に向ける。体は、動かない。まるで金縛りにあったかのようだ。
 僕と彼女の距離が、手を伸ばせば互いに触れることができるところまで近づいて、彼女の歩みが止まった。僕は、視線だけを、彼女の持っている石から、彼女の顔へ移す。彼女は、優しく微笑んでいた。僕は笑おうとした。笑おうとしたけれど、実際に笑えていた自信はまったくない。
 彼女は、僕の瞳を見て、持っていた石を胸の前で、僕に見えるようにかざして言った。

 「この石は、虚無である。」

 不思議な言葉だった。何もかもが。
 彼女は、普段は何々であるなんていう言い方はしない。普段は、こんな意味が分からないことなど言わない。彼女の声色は、普段はこんな声色だっただろうか? 分からない。彼女の言葉の奇妙さが、声色さえも不自然に感じさせているのか、それとも本当に声色が変わっているのかさえも。
 彼女は僕を見つめたまま、腕を伸ばした。僕は、彼女から視線を外せない。身動きも取れない。

 トンっ。

 彼女の持つ石が、僕の胸に当たった。
 軽く当たったはずだ。痛みはなかった。けれど、その衝撃が、僕を揺らした。

 僕は、グラグラした。

 その時は、どれくらいだったのだろう? 僕の意識が覚醒し、体験した時間が引き延ばされる。僕にとってこの一連の出来事は、ひどく長い時間に感じられた。でも、多分、そんなに長かったはずはない。僕はこのときのことを、何度も思い返すことになる。
 彼女は、僕を見ていた。僕は、何故か彼女から目をそらし、僕の胸に当たっている石へと視線を移した。目と首だけが、そこだけが動く人形のように、いびつに動いた。
 石は、僕の胸から離れた。
 その石は、僕と彼女の中間で止まった。僕の目は石に引き付けられ、その結果、石と彼女が同じ視界に入る。桜の花びらが、静かに舞い落ちている。彼女は、首を少し傾けて微笑んでいる。その微笑は、僕にとって命令だった。僕は、手を差し出す。その手が震えていたのかどうかも、僕には分からなかった。

 「はい。」

 そういって、彼女は持っていた石を、僕の手のひらに乗せた。

 「じゃあ、さようなら。」

 そう言って、彼女は去っていった。僕は、馬鹿みたいに立ち尽くし、いつもでも彼女の後ろ姿を見つめ続けていた。桜の舞う道を、彼女は静かに歩んで去っていった。
 そこから先の記憶は、思い出そうとしても思い出せない。だから、おそらく彼女はそれから振り向くことなく去っていったのだと思う。僕は、彼女に手渡された石を持って、住まいへ帰ったのだと思う。我に返ったときには、自宅のベットの上にいたからだ。あの石は、机の上に置いており、僕はベットの上から、それをぼんやりと眺めていた。

 

 

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